ずぶぬれの二人の札幌

札幌でフリーライブとグルメを楽しんでいます。

生まれ故郷の滝川市への旅

 何度も夢に見た生まれ故郷の滝川市に日帰りで帰りました。行きはJRの各駅列車に乗った。滝川駅に来たのは30年ぶりだが、駅は綺麗になっていた。

 駅前は、70年代は、高林デパートなどの店があり、夏は歩行者天国になっていて、栄町のレコード店からはサザンオールスターズピンク・レディーの歌が流れていた。テレビを見せてもらえない私は、学校での話題に付いていくため、レコード店から流れるピンク・レディーの歌をその場で覚えた。

 しかし、通りは、シャッター街を通り越し、空き地になっていて、レコード店も高林デパートも無くなっていた。

 子供の頃、父に、滝川デパートという6階建てのデパートに連れていってもらい、最上階の食堂でフルーツパフェなどを食べたことがあった。そのデパートがあった場所に、「プロスビル」と書かれた廃墟ビルがあり、たしかに6階建てだった。近寄ると、「協同組合滝川デパートプロスビル」という看板に、かつての名前が読み取れた。私が父とフルーツパフェを食べた6階のレストランは、その後、「ラウンジブルームーン」というスナックになり、それも閉店になり、廃墟になったようだ。それでも、形だけは見れて良かった。

 あの頃、父と、三光書店という本屋に行ってから、今は廃墟のこのビルで食事した。三光書店は、専門書や文学作品などが多く置かれ、クラシック音楽が流れる、この地域の知性の担い手的な存在だった。

 滝川駅は、函館から札幌を経由して旭川に向かう函館本線だけではなく、富良野を経て根室に向かう根室本線の起点となり、交通の要衝でした。かつては、町の商業施設に、隣町の赤平市や砂川市から買い物、仕事に来る人も多く、町は賑やかだった。「人口の割にスナックが多い」とも言われたらしい。街を歩けば、有線の歌謡曲が聞こえ、私は、渡辺真知子という歌手の「ブルー」がかかると、聴き入った。

 しかし、シャッター街になった町はかつての面影はなく、有線の歌も聞こえなかった。

 明治時代に建てられた中川金物店の建物は無くなっていたが、かつての拓銀だったコリント式建造物の北洋銀行は残っていた。拓銀が消えてもこの建物だけは残っていた。「かわて美容室」も昔からあった。

 滝川神社も昔のままのような気がした。

 滝川市の第一小学校も、昔のままの姿だったが、小学校低学年まで住んでいたアパートはすでに建て替えられ、位置も変っていた。

 近所の理髪店、私が貯金していた郵便局は昔のままだった。

 造園の会社は見覚えがあった。

 中学時代だが住んでいたアパートは、あとかたもなく消えていた。草が生えた空き地があるのみ。

 このあたりは、昭和の頃は、雪が落ちるための三角屋根の家が立ち並んでいたが、半分くらいは、新しい住宅に建て替えられ、街の雰囲気は変っていた。

 街が変わりすぎて、知らない街のようだった。学校からの帰り道に一緒に歩いた人、家に遊びに行った人などが少しいたが、家は見当たらなく、昔のことで、今さら訪問する気持ちもなかった。

 田んぼの景色や歩いたあぜ道は変わらない。オリビア・ニュートン・ジョンの「カントリーロード」の世界だ。

 工業高校の前にある野上菓子舗は、父がよくお菓子やケーキを買ってくれて、その店は、代替わりして建て替えて今もあった。

 その店でお土産のお菓子を買った。歩き疲れたので、イートインでケーキとコーヒーを頼んで、休憩した。ケーキはおいしかった。

 50年前になるけど先代のお嬢様の誕生会の時に一度だけ、呼ばれたことがあって、人気者な方に招待され、嬉しかった。買ってきたお菓子は、野良猫には大好評だった。