ずぶぬれの二人の札幌

札幌でフリーライブとグルメを楽しんでいます。

未来はすでに確定している。カラオケで認知症予防

 練習したい歌をCDに入れて何時間か聴いてから、今日、カラオケボックスで歌ってみました。私は、認知症予防のために歌う面もあるので、あえて、難しい曲を選んだが、やはり、なかなかうまく歌えなかった。最近の歌、特にボカロなどは、複雑で転調も多く歌いにくいが、メロディーは魅力あるから、好きだった。

 といっても、まだ、還暦だから、練習すれば多少は何とかなる。

 認知症は、なるとしたら、たぶん、80歳以降だから、25年後、その時に発表された歌を覚えられるか。ボケずにいられるかな。

 

 私は、うまく言えないが、「未来はすでに確定していて、その未来を暗示するものは今現在、存在するが、神ならぬ身の大半の人は気づかない」とずっと思ってきた。

 だから、昔は「子供には無限の未来がある」と言われましたが、「無限の未来はなく、あらかじめ決められた未来があるだけ」と小学生くらいから思っていた。一度、担任の先生にその考えを話すと「あなたはニヒリストだ」と言われた。ニヒルとは虚無という意味だそうです。ニヒルとも違います。

 花札をするとき、あらかじめ何枚かの札が配られ、「点数の低い札ばかり」「高得点の札が来たぞ、五光になるかな」と人は思いますが、あれに近い感じ。一応、手元に札は来るから、虚無ではありません。

 私の札は、高得点はないが、点数は低くとも上手くまわる感じ。頭は悪い顔も悪いが、仕事は努力はするので、少なくとも、経済的には何とか食べていけるし、友人は少ないが、誠実な人ばかりで、何とかうまく回ってきた。もしかしたら、努力すれば何とかなる場面では努力できる性格は、知能の低さを上回る高得点の札だったかも、知れない(努力しても無駄だと判断すれば、退却した)。また、数は少なくとも優しい友人に恵まれた。

 だが、容姿の冴えない私に、芸能人になる未来はないし、食べてはいけても、大富豪になりやしない、突拍子もないことは、起きない。

 そんな私がいちばん望むことは、認知症にならず、病気にならず、何とか日常を生きて、笑って死ぬ、納得して死ぬこと。

 ある程度の衰えがあるのは、すでに、プログラミングされているし、神様は分かっているだろうけど、うまく死にたいとは思います。実は、昨年から母が認知症の初期と言われ、自分で糖尿病の薬の管理などもできない状態で、しかし、プライド高い彼女はそれを認めないようだった。

 あえて、難しいボカロ曲を歌う練習(劣等上等はかなり難しく)や、青魚の粉末を食べる、糖尿病にならないように気を付けるなどは、多少は、認知症予防になってくれるか。未来はすでに確定していて、何をどうしようが認知症になるとしても、これだけは、抗わねばならない。というか、ボケない努力だけは続けることが、頭悪い私には唯一の知的誠実なのだ。

 かつて、30歳年上の親族の女性が

「近所に住む会社役員の立派な屋敷に住む男性が倒れて、半身不随になり、トイレも自力で行けなくなった。東大卒のエリートだが、人生の最後には、どこの大学を出たとか関係ない。自力でトイレにいけて食事できる人が、人生の最終的勝利者だ」と発言し、私は思わず、

「なんて虚しい。自力でトイレに行ける人が人生の最終的勝利者ならば、人は何のために、勉強し、働き、社会的地位を確立するのでしょうか、努力に何の意味があるのでしょうか」

「死ぬときは、社会的に確立した地位も財産も、あの世には持っていけないのですよ」

 

 家族や友人と仲良く、明るく生きて、下の世話にならず、認知症にもならず、ピンピンコロリで笑って死にたい。