ずぶぬれの二人の札幌

札幌でフリーライブとグルメを楽しんでいます。

靖国神社、千鳥ヶ淵戦没者霊園、父が見た敗戦の前兆

 終戦記念日の今日、靖国神社千鳥ヶ淵戦没者霊園に行きました。

 麦茶の振る舞いがあったので、まずは、喉をうるおして、本殿近くに進んだ。

 拡声器から、(武道館の戦没者慰霊式典にいる)岸田首相の演説が流れ、やがて、正午ちょうどに、本殿の脇に、国旗を持って、「黙祷!」と号令をかける男性がいて、一同、戦没者のために黙祷した。

 さらに、拡声器から、(武道館の戦没者慰霊式典に出席している)天皇陛下の挨拶が始まり、みんなは黙ってそれを聴いていた。それが終わると、号令をかけた男性が国旗を振って、周りの人が「海行かば」という軍歌を、遠慮がちに、(コロナを気にしてか)小さい声で歌っていた。もしかしたら、この人たちは、右翼団体なのだろうか。

 しかし、それとは別に、青い制服に身を包んだ、いかにも右翼団体と分かる男性たちもいた。厳つい雰囲気、ピアスや指輪をつけたり、袖口から刺青が見える人もいた。

 ラッパ?トランペットの音が聞こえたので、楽器の音には釣られる習性の私は近づくと、海軍?のセーラー服(男子用)を着た高齢男性がラッパを吹いていて、脇には、旧陸軍?の軍服?カーキ色の戦闘服?の男性や、着物に白い割烹着で「国防婦人会」のコスプレ女性などがいた。

 カーキ色の戦闘服?を着た男性は、昔読んだ「ビルマの竪琴」のイラストの兵隊さんを連想した。「水島、一緒に帰ろう」

 写真はOKと言われましたが、一応、顔はぼかしています。

 靖国神社の周辺は、右翼団体だけではなく、様々な思想の団体が、ビラを配っていた。台湾独立がどうの、平和がこうの、という感じだった。

 だが、私はここでは傍観者に過ぎなかった。

 ふと、思い付いて、千鳥ヶ淵戦没者霊園まで行ってみました。桜並木の緑道を進むと、野外の祭壇に花束を手向ける人たちが並んでいた。菊の花が飾られた祭壇には、内閣総理大臣など政治家の名前が書かれた札が立って、重々しく見えた。

 ここは、靖国神社ほどは人がいなかった。ここも、緑に囲まれ、美しい場所だと思った。

 

 私の父は、戦争がひどくなって、昭和19年3月から、山形県新庄市の祖父母の家に疎開し、日進小学校に通っていたそうです。

 昭和20年3月、東京で大空襲があったので、父の父(私の祖父)は、父の妹(私の叔母)も新庄市に送ることにし、3月末から父は妹と疎開することになった。

 父の父は、「東京は3月の空襲で壊滅的被害を受けた。戦争は勝てない」と声をひそめていたらしいが、小学生だった父は、学校で、女性教師が「絶対、戦争に勝てます」と言うのを聞いて、「勝てたらいいな」と思っていた。

  さらに、4月になると、東京は危ないということで、父の二人の弟も新庄市にきた。

 その5月、近隣の青年たちが、広場に集められ、軍事訓練を受けているというから、父とその妹が見に行くと、青年たちはよれよれのシャツにずぼん、足は靴ではなく、粗末なわらじをはいて、軍事訓練とは名ばかりの行進をしているのを見て、特に、その、わらじを見て、小学生だった父は、「この戦争は負ける」と直感的に思ったそうだ。青年たちといっても、周辺の農家の子弟が、慣れない行進をしているだけ、

 学校では、教師が「戦争は勝ちます!」と声を張り上げていたが、父は、口には出さなかったが、わらじをはいた青年たちを思うと、もはや、賛同できなかった。

 8月に敗戦となり、9月には、父とその弟妹は東京に戻った。

 後年、父は、「もっと早くに戦争を辞めていれば」と口にしていたが、なかなか、そうも行かなかったのだろう。

 私の出身地の北海道は、南方や沖縄などの戦地に赴いた軍隊が多く、家族を置いて異国の土になった人の話は多い、どんなに辛いか、胸が痛い。

 若い世代には、悲惨な戦争を体験させたくないし、幸せに生きてほしい。そのためには、政治に関心をもち、政治家の動向をチェックしたり、有事に備えて食料自給率を高めるとか。そんなことしか思いつかないが。

 戦局が悪化し、誰もがもうダメだと思っても、上層部は「絶対勝つぞ」と叫ぶ。死ぬのは自分じゃないからね。

 政治家を「お偉いさん」なんて言ってはダメで、自分の目で見た情報を信じることだと思います。

 わらじをはいて、戦争するようじゃ、勝てるわけがないのですから。