先日、清掃バイトで使う100枚入りビニール手袋を購入したいので、薬局めぐりを兼ねて、赤羽まで散歩した。
何軒か回って、結局はどこにもなくて買えなかった。
「手袋のストックはあるのかね」
「5月の末くらいまでは大丈夫。
まだ、こういう物資が買えた1月末には、新型コロナは、風邪の一種だから、遅くとも、5月の連休までには収まる、と思っていたんだわ。
当面は大丈夫だから、買い占めはするまいと思ったんだけど」
「見つけたら、買ったほうがいい。コロナは、長期化するかも知れない」
「ひと家族、一個しか買えないよ」
「店で離婚して二個買って、店を出たら再婚する夫婦、いるだろうな」
だが、「ビニール手袋を探しがてら、歩いてみよう」と散歩する目的になるので、無くても今は良かった。
ビニール手袋を探すなんて、些細なつまらない、情熱をかける値打ちもないことだが、
こんなことを目的にするほど、今は、何も出来ず、C19以前と変わってしまった。
赤羽の公団住宅群から駅に向かう崖の階段脇に、八重桜が華やかに咲いていて、とても綺麗だった。
何というか、桜が私を呼んでいるのだ、と感じた。
ビニール手袋が買えないのは、コロナのせいではなく、この桜が呼んでいるからなのだ。
せいではなく、と言えるのは、いつかはワクチンができてただの風邪になるC19と違って、桜はずっと咲くからだった。
足を止めて、しばし、花に見とれる人もいた。
未来は桜色なのだ。