ずぶぬれの二人の札幌

札幌でフリーライブとグルメを楽しんでいます。

私小説作家、川崎長太郎が暮らした小田原を訪問

 川崎長太郎(1901~1985)が暮らした小田原の街を訪問しました。

 彼は、小田原の魚売りの家に生まれ、旧制小田原中学(現小田原高校)中退後、東京に出てプロレタリア文学を目指したり、徳田秋声に師事したりしたが、東京での生活に行き詰まり、小田原の実家の物置小屋に暮らしながら、ルンペン(ホームレス)みたいな貧しい身なりで、抹香町なる赤線?遊郭?で遊女?嬢?と安く遊ぶ日々を私小説にし、やがて、その最底辺の生き方が面白いとされ、つげ義春や西村貫太などが好んだとされます。

 「余熱」という作品では、弟の家に居候しながら、売れない小説を書く主人公に、脳溢血のあとに身体がマヒした母親が、「食べていくことができなかったら、首をくくるかなんかして、死んでしまっておくれ」という場面があり、親の愛の深さと残酷さ、そう言われても、生き方を変えられない男の哀しさが、突き刺さります。

 思えば、私も、若い頃は不景気な北海道でなかなか仕事もなく、親を心配させたと思います。

 そんな底辺作家(私から見たら、そんなに底辺ではない)の彼も、戦後の出版ブームで、少し原稿料が入って、そのお金を貧乏性で貯金していて、利息ももらえるようになり、時々は甥や姪たちと会食して家庭の雰囲気を味わったりし、60歳の時には、30歳も若い女性ファンと結婚し、晩年は幸福だったようです。家族とは仲が良かったらしい。

 今日は、彼が足しげく通った「だるま」という料亭で、彼がいつも食べていた「ちらし寿司」を私も食べてみました。

 だるまは明治時代創業の古い趣ある建物で、人気店らしく30分ほど待った。入口に、おかめの像があった。案内板を見て、時間をつぶした。

 

ちらし寿司もおいしかった。

 それから、小田原文学館まで行って、川崎長太郎の常設展示を眺めた。写真撮影できなくて、残念だった。

 途中、「ちん里う」という梅干しの店があり、古い時代の梅干しが陳列されていた。確か、かなり前は駅前の店にあったと記憶している。

 お城みたいな建物があった。よく見ると、ういろうのお店だった。

 川崎長太郎が住んでいた小屋の跡地に、住居跡碑があるので、歩いていってみました。さびれたアーケード街の外れの斜面に、ぽつんと立っていた。

 石碑には、「抹香町」という小説の一小節が刻まれていた。

 抹香町は今は存在しないそうですが、シャッター街となったアーケード商店街のどこかにあったのかも知れない。

 それから、小田原駅に戻り、川崎長太郎も食べたかも知れない、「ういろう」というお菓子を買って、早川駅まで電車に乗った。

 早川駅近くの真福寺(早川観音)に、川崎長太郎の文学碑があるので、行ってみた。

 最初は、間違って、 魚籃観音がある薬王山東善院に行ってしまった。

 

 それから、雨のなかを歩いて、真福寺に向かって、文学碑を見つけた。文学碑は苔むして、よく読めなかった。

 早川観音は、よく見えなかった。

 おびんずる様が置いてあり、ちょっとさわった。

 私小説というのは、自分を極限までさらけ出すもので、なかなか書けるものではないと思います。でも、他の人が、「恥の多い人生です」と語っても、よく聞けば、それほどでもない、みんなそれなりに真面目だと思ってしまいます。